旅先でのことです。
私が紙の新聞を広げて読んでいたら、隣にいた高校生が驚いた顔で言いました。
「えっ、新聞読めるんですね? すごい!」
──読めるんですよ、新聞。しかもふつうに。
でも、その一言がなんだか象徴的に感じました。
紙の新聞を読むという行為が、もはや“レトロ”に見える時代になったのです。
📱 若い世代は「読まない」わけじゃない
いまの若い世代は、文章を「読めない」わけではありません。
単に「読む必要がない」だけです。
情報は、動画や音声、ショートコンテンツで流れてきます。
自分の欲しい情報を、タイムライン上で“直感的に”キャッチできる時代です。
いちいち長文を読むよりも、感覚的に理解する方が早い。
だから「長い文章なんて書いてられねえわ」という感覚は、
むしろ時代に正直で、タイパ(タイムパフォーマンス)を意識した合理的な判断です。
📘 国語力は下がっていない、変化しているだけです
「最近の若者は国語力が下がっている」とよく言われますが、
それは“紙文化の物差し”で測っているからそう見えるだけです。
確かに本を読む人は減りました。
でも、その代わりに若い世代は非言語的な読解力を身につけています。
短い映像やコメント、スタンプ一つで、相手の感情を読み取る。
数秒の動画から「何を伝えたいのか」を直感で理解する。
彼らの中では、すでに「言葉以外の文法」が成立しているのです。
だから、文章を書く意欲が減っているのは自然な流れです。
情報の総量があまりにも多すぎる時代に、
長い文で“説明”しようとする行為は、むしろ不自然になってきています。
🧓 おじさんの文章が長くなる理由
では、おじさんの文章はなぜ長いのでしょうか。
それは「自分の言いたいことを全部書かないと安心できない」からです。
おじさんの文章は、「削る勇気」がない文章です。
彼らが社会人として育った時代では、
「ちゃんと説明できる人=信頼される人」でした。
長く書くことは誠実さの表現であり、
「しっかり考えています」という証拠でもありました。
だから今でも、「短くまとめる=雑」「軽い」と感じてしまうのです。
しかし現代では、情報が多すぎて、
長く書けば書くほど“読まれない”という皮肉な時代です。
読まれないだけでなく、読もうという気すら起きない。
それでもおじさんたちは、「ちゃんと書けば伝わる」と信じています。
つまり、おじさんの長文は、**“誠実さの遺産”**なのです。
ただ残念ながら、それはもはや誰にも届かなくなってきています。
🧩 「書籍文化」の終わりと、新しいリテラシー
おじさんたちは書籍の時代に育ちました。
情報は“本に載っているもの”であり、
読むことこそが「知ること」でした。
でも今は、“見ること”や“感じること”が「知ること」になりました。
だから、書籍文化は静かに終わりを迎えつつあるのかもしれません。
「読ませる」から「感じさせる」へ。
「構成」より「共感」へ。
文章はすでに、“伝達手段”から“体験の一部”へと変わってきています。
長文を読まない人が増えても、それは悪いことではありません。
“速く選び、瞬時に掴み、直感で判断する”能力が上がっているのです。
つまり、私たちは「読まなくても理解できる」世界へと進化しているのです。
💬 まとめ
若い世代は「文章力」よりも「直感力」や「編集力」を発達させています。 おじさんの長文は、かつての“誠実さの証”であり、いまでは“時代のズレ”でもあります。 書籍文化が薄れても、「感じ取る文化」はどんどん豊かになっています。
🪶 終わりに
あのとき高校生に「新聞読めるんですね」と言われた瞬間、
私はちょっと笑ってしまいました。
でも同時に、言葉や文字に対する「感覚の断層」を感じたのです。
文章が短くなることは、思考が浅くなることではありません。
時代に合ったスピードで理解し、感じ取る力が生まれているのです。
それでも私は、たまに新聞を広げて読みます。
紙の匂いと、活字の重さがまだ好きだからです。
──でも、その隣でスマホをサッとスクロールする高校生の目の速さには、
正直、かなわないと思いました。
